ここしばらく、いろいろな方からいただいた献本について、感謝しながらもなかなか消化できず、その多くが「積ん読」状態になっています。正確に言えば、それぞれざっと目を通し、斜め読みはしているのですが、ちゃんと本紙の書評欄やあるいはこのブログで紹介できるほどきちんと読んではいないというか、その余裕がないというか。趣味の読書は相変わらず続けているので、この言い訳も実に苦しいところですが、こんな感じで…。

その中できょうは、和光大学名誉教授の岸田秀氏の談話集「官僚病から日本を救うために」という本を少し紹介したいと思います。私はもう四半世紀も前になる大学1年生のとき、先輩に勧められてこの人の「ものぐさ精神分析」という本を読んだのですが、まさに目から鱗の連続でした。心理学・精神分析の手法でみた歴史や社会のありよう、また「時間と空間の起源」…など、あまりに面白さ、明快さに何度も読み返したのを覚えています。

で、私はいったん気に入るとけっこうのめり込む方なので、産経に入って7年目に、読書欄の書評で以下の記事を書きました。当時の文化部の担当デスクには、文体が硬くでちょっと読みにくいと不評でしたが、何とか載せてくれました。当時は、何かを伝えよう、紹介しようと思うととにかく紙面に売り込むしかありませんでしたし。
《【書評】「二十世紀を精神分析する」 岸田秀著 「史的唯幻論」的に現代を読む[ 1996年11月21日
世界の歴史は病的現象として理解する必要があると、史的唯物論に対して“史的唯幻論”を唱える著者は主張する。
人間は行動規範である本能が壊れたため、代わりに自我を持った。その自我の起源を説明し、価値づけ正当化する物語がいるが、罪や不安、屈辱などの経験は自我の物語に好ましくない。そこで現実の経験を隠蔽(いんぺい)し、偽りの自我を築くが、偽りに基づく行動は、偽りを知る自我や周囲との関係に障害を与え、精神的に病む。このメカニズムは国家など集団の場合も同じ--というのである。
著者は二十年近く、精神分析の手法で目からうろこが落ちるような文明批評を続けており、本書は平成四年から今年までの文を集めたもの。
例えば、先の大戦における日本の役割をめぐる「侵略者か解放者か」の章では、皇国史観、東京裁判史観をともに一面的として、興味深い視点を提供する。
「ある主観が自己欺瞞かどうかを判定するには、行動とその行動がもたらした結果を見ればよい--中略--日本の対米英蘭戦争は現実の結果としてアジア解放をもたらしており、言ってみれば、主観と現実の結果が一致している」
「戦後賠償の問題」では「西欧のことは問題にしないでひたすら日本が払うべき賠償のことだけを言いたてる人」について、「日本はペリー来航以来、誇大妄想的自尊心を追求する内的自己と卑屈に西欧諸国に迎合する外的自己とに分裂し精神分裂病になった」と説明する。「アイデンティティが混乱し本来ならば対立しているはずの他者になってしまい、他者が言うようなことを言うのは精神分裂病者ではめずらしいことではない」
この章では「世間に何となく、最左翼が認められやすい雰囲気がある。そのためわたしは最左翼のほうを力を入れて批判した」とも書いている。戦後の外的自己の突出は、まだ続いている。 (文芸春秋・一五〇〇円) 社会部 阿比留瑠比》
さて、余談が長くなりましたが、本題に入ります。ここで似たような書評を書いても仕方がないので、今回はこの「官僚病から日本を救うために」の中で、岸田氏が述べていることを、言葉はそのままに勝手に抜き出し、分類してみようと思います。下手に私の言葉で説明するより、その方がずっと分かりやすいだろうと。相変わらず、非常に面白いと感じましたが、同時にこの病の深刻さに空恐ろしくなります(談話集からの抜粋のため、今年の言葉と、1998年の言葉とがあります)。
【官僚病】 官庁だけでなく、どのような集団も自閉的になる傾向を持っています。国家も同じです。北朝鮮はもとより、日本も中国も無縁ではない。官僚病はこの自閉的共同体から生まれます。というより、その最大の特徴であると言っていい。ある集団が自閉的になると、その集団以外の人間は人間でなくなる。仲間うちの者しか人間ではなくなる。
自閉的共同体に入ると、初めのうちはおかしいなと思っていても、そういう批判をすると仲間外れにされ、弾き出されてしまいますから、結局、同化するしかなくなる。弾き出されるか、その共同体のメンバーと同じ考え方を受け容れるか、そのどちらかしかないからです。批判する人は弾き出されるわけですから、共同体そのものは変わることなく残ってしまうのです。つまり、人は入れ替わってもシステムは残ってしまう。
【メディアの官僚化】 新聞業界、テレビ業界で、一つの自閉的共同体を作っているとも言える。新聞やテレビは社会正義を守る木鐸であると言われているわけですが、しかしどうしても新聞社そのもの、テレビ局そのものを守るように動いてしまうわけでしょう。
【官僚病の原因と被害者】 ある集団が自閉的共同体になってゆくことがその構成員にとって必然なのは、それが一番楽だからです。仕事はしなくていい。自分たちの失敗は外に洩れない、身分は安定している、こんな良いことはありません。だから、内部のものは和気藹々としていられる。
外部というのはその官僚病の被害者です。たとえばエイズ問題がそうです。どれほど多くの人がエイズになろうが、そんなことは無視して共同体を守ろうとしたわけです。被害者の存在そのものが初めはなかなか視野に入ってこないのです。内部の人は外部を見ようとしないから、外部の現実つまり被害者は存在しないに等しい。
結局仲間以外のことは考えないんです。一般の国民は仲間以外だから、国民にどれほど迷惑が掛かろうが、傷つこうが、損しようが、そんなのは視野にないんです。
【仲間意識】 現在の官僚機構にメスを入れるのなら、まず採用試験でしばらく東大法学部卒を採らないとか、あるいは、総員の多くとも三分の一以下にすることにしてはどうでしょうか。私立でも高校卒でも、あるいは新卒をやめて中途採用だけにするとかいった方法も考えられます。それから親類縁者に高級官僚のいないことを条件にするとか。とにかく彼らが仲間意識を形成しないようにすることです。仲間意識をもった官僚ほど恐ろしいものはありません。仲間を守るためなら、エイズで何万人死のうとも平気です。
【システムの問題】 個人を責めたって意味がない。大蔵省の接待の件でもそうですが、収賄した個人の問題なんかじゃない、これもシステムの問題なんです。個人を責めるのは、自分がやってもらえないから嫉妬しているだけです。システムの問題を個人にすり替えてしまってはいつまでも解決しません。卑劣な個人が官僚になるのではなく、共同体としての官庁に入ると、共同体を守るために知らず知らずのうちに卑劣になるのです。
【社会保険庁】 年金は何のためにあるのか、社会保険庁は何のためにあるのかという根本的なことを考えずに、連中は社会保険庁という役所そのものを自分たち内部の人間が楽をするための遊園地に仕上げてしまったのでしょう。内部の人だけが何の苦労もない気楽で安定した生活をしていたわけで、その当然の結果として外部の人はないがしろにされ、年金が受け取れない人が出てきたわけですね。
【労組】 労働者にとって理想的な状態は、働かなくて高給が入り、福利厚生のサービスも満点であるという状態です。労働組合が自閉的共同体になり、外部のことを忘れ、その理想だけ追求すると、民営化以前の国鉄のようなことになります。外部の人、すなわち消費者をないがしろにすると、民間会社から破産して潰れますが、親方日の丸でしたから、国鉄にしても郵便局にしても潰れなかったわけです。
会社だって同じく自閉的共同体なんですよ。ただ民間会社だと歯止めがかかるんです。
一般の会社の場合には、たとえば内部を守るために不良製品を隠していたとして、いずれはバレてその会社は潰れてしまいます。そういう外部的な歯止めはあるわけです。官公庁にはそれがない。かつての大阪府庁とか、自治体のなかにもそういう例が多いのは、民間の会社の外部にあたるものがないからですね。
【そこから抜け出すために】 もちろん簡単に抜け出せるものではありません。人間とはそういうものだと言ってしまえば、それまでですが…。
結局、日本という国家が自立すること、そのためには国民の一人一人も自立することが求められているのではないか。そう考えるほかないと思いますね。そうしなければ、外部の現実を直視することはできない。
自閉的共同体が日本の自立を妨げる最大の障害です。防衛省、財務省、厚労省、外務省などの省庁をはじめ、どのような集団も自閉的共同体になりがちで、そして、そうなれば日本は破滅しかねないのですから、国民は彼らがそうならないようつねに警戒を怠らないことが必要です。自閉的共同体は外部からしかブレーキをかけられないのですから。
…キーワードとなっている「自閉的」という言葉には、私自身とその周囲のことを振り返っても、苦い反省とともに思い当たる部分もあります。と同時に、岸田氏も少し言葉を濁していますが、自分自身、思い当たるからこそ、それを改めるのは実に難しいだろうなあ、と考えざるをえません。結局、できあがったシステムを壊すのは「外圧」にしかできないのか、だとすると、今度の総選挙はその外圧になりうるのかどうか。
聞くところによると、最近の自民党の調査では、次期衆院選の獲得議席は過半数どころか200割れがほぼ確実なようですし、やはり政権交代の確率はかなり高いのだろうと思います(まだこの先何があるか分かりませんが)。そのときには何が起きるのか起きないのか。
脈絡のない話ですいませんが、郵政解散を間近に控えていた2005年7月、自民党の中川秀直元幹事長が自身のホームページに「『玉石ともに砕く』覚悟で、抵抗を押し切らないと歴史は転換できない」と書いていたのを思い出します。これは、織田信長が比叡山を焼き討ちし、高僧も破戒僧も区別せずに皆殺しにした際の覚悟を示す言葉だそうです。当時、細田博之幹事長(当時・官房長官)も「解散は、比叡山の焼き討ちだ」と言っていましたから、小泉元首相サイドの気分をよく反映したものだったのでしょう。
今度の選挙は、比叡山の焼き討ちどころではないもっと大きな破壊と創造をもたらすのかもしれませんし、あるいはそうではないのかもしれません。しかし、いずれにしろ、パンドラの箱はいずれ開くものなのでしょうし、最後に小さくても希望が出てくることを信じて、淡々と見守っていこうと思います。あるいは、選挙後は混乱と激動の中で何が何だか分からないうちに日々が過ぎていくのかもしれませんが。


by izatakahumi
支持率続落・小沢氏の「次の一…