久間章生防衛相は、米国による原爆投下を「しょうがない」とした発言について陳謝し、事実上撤回しました。でも、そう発言するに至った久間氏の歴史認識に関しては、このブログのコメント欄でも、たくさんの方が意見を述べていて、批判も多かったようです。コメント総数は2日午前10時現在で約140(私の返事も含めてですが)に上っており、この原爆投下とソ連の対日参戦の経緯についての関心の高さが分かります。この二つは日本が歴史上、経験した最悪の事例でしょうから、当然でしょうね。
私は14年前の社会部時代に、社会部、外信部、文化部からメンバーを集めた「日ソ問題取材班」の一人として、このソ連の参戦の経緯を取材していました。まだ入社4年目の若手でしたが、終戦当時を生きたさまざまな人や研究者らから話を聞いたり、あるいはソ連側の非公開公文書を保有している人物の好意でごっそり資料をもらったりで、充実した記者経験ができました(上司からは、かなり叱られましたが、それも今日につながっています)。まあ、なにせ14年も前の話なので、細かい事実関係などは書いた当人もかなり忘れてしまっていますが。
そこで、前回のエントリで紹介した久間氏の発言をどう考えるかの材料として、当時の記事の一部を掲載したいと考えました。18回の連載記事のうち、関連がある5回分についてです。原文はけっこう長いので一部略しました。まずは、ソ連が北海道の北半分を占領し、領土とするつもりだったという話からです。この記事は、原爆ではなくシベリア抑留との関連に注目しています。
《【検証「戦後日ソ」の原点】(2)幻の北海道占領 代償に「抑留」実施
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ソ連の対日参戦から一週間後の一九四五年(昭和二十年)八月十六日、モスクワ中央はソ連極東軍総司令部に「捕虜のソ連領への移送は行わない」と指示し、さらに一週間後の八月二十三日、スターリン国防委員会議長名で「日本人捕虜五十万人をソ連領に移送せよ」という全く逆の秘密命令が出された。
この方針転換について、シベリア抑留問題に詳しいロシア最高軍事検察庁のウラジミール・ボブレニョフ法務大佐は「この時期にスターリンとトルーマン(当時の米大統領)の間で交わされたやりとりが深く関係している」と指摘した。
この米ソ秘密外交書簡は“スターリン批判”後の一九五七年(昭和三十二年)、日本でも邦訳が大月書店から出版されている。問題の部分を抜粋すると-。
八月十五日、トルーマンはスターリンに宛て、ソ連の占領区域に関して次の一般命令第一号を伝えた。《満州、北緯三八度以北の朝鮮および樺太にある日本国の先任指揮官ならびにいっさいの陸上、海上、航空および補助部隊は、ソヴェト極東軍総司令官に降伏すべし》
八月十六日、スターリンはこれに二つの修正提案を行う。《ソヴェト軍にたいする日本国軍隊の降伏区域に千島列島の全部をふくめること。千島列島は、クリミアの三大国の決定(ヤルタ協定)によれば、ソヴェト同盟の領有へ帰属すべきものです》《ソヴェト軍にたいする日本国軍隊の降伏地域に、樺太と北海道のあいだにある宗谷海峡と北方で接している、北海道島の北半をふくめること。北海道島の北半と南半の境界線は、島の東岸にある釧路市から島の西岸にある留萌市にいたる線を通るものとし、右両市は島の北半にふくめること》
八月十八日、トルーマンは第一の提案は受け入れたものの、第二の提案は拒否した。《私は、日本本土のすべての島、すなわち北海道、本州、四国、九州にある日本武装兵力はマッカーサー将軍に降伏するものと考えています》
八月二十二日、これに対するスターリンの返事は《私と私の同僚たちは、あなたからこうした回答を期待していなかったと、言わなければなりません》。
ボブレニョフ大佐は「結局、スターリンは北海道上陸を断念し、これが日本人捕虜のシベリア抑留につながった」と見る。
また、大佐の研究によれば、八月二十日、モスクワのアントノフ総参謀長からソ連極東軍総司令官のワシレフスキー元帥に「北海道及び南千島列島への作戦も準備せよ。但し、この作戦は本部の特別指令によってのみ開始すべし」との指令が届き、同元帥はこれを受けて各方面軍司令官らに「北海道攻撃はモスクワからの命令があるまで待て」と電報で指示しているという。
ロシア科学アカデミー東洋学研究所国際協力部長のアレクセイ・キリチェンコ氏も「北海道の北半分を占領したい、というスターリンの要求をトルーマンがはねつけたことが、捕虜のシベリア抑留を決めた第一の原因と見ていいだろう。もう一つ、スターリンに“日本をいじめたい”という深層心理があったかもしれない。あるいは、“国民経済の復興のため”という理由で日本の捕虜を抑留したのかもしれない。こうなると、全くの“スターリンのゲーム”だ」と語る。
両氏の研究は、北海道の北半分の領土がシベリア抑留による強制労働であがなわれたことを物語る。
ボブレニョフ大佐はさらに、「私見」と断った上で、次のような驚くべき見解を示した。
「満州の日本人捕虜について、ソ連と米国の間で何らかの合意ができていたのではないか。例えば、多数の軍人が日本に帰った場合の混乱を考え、捕虜の移送を米国側から提案した可能性もある」
しかし、この見解を裏付ける証拠はまだない。 (日ソ問題取材班)
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【メモ】 ソ連の北海道占領計画とそれを断念した経過は、本紙が関係筋から入手したロシア側記録からもうかがえる。
ソ連極東軍総司令官(ワシレフスキー元帥)から最高総司令官(スターリン大元帥)あての八月十八日付報告《極東軍及び太平洋艦隊の課題、即ち、全満州、内蒙古、大連及び旅順港を含む遼島半島、三八度線に至る朝鮮、樺太の南半分、北海道の釧路から留萌に至る線より北側の半分及び全千島列島の占拠という課題に基づき、方面軍部隊に対して以下の当面の課題を与えた》
同八月二十日付報告《本官(ワシレフスキー元帥)及び第一極東方面軍司令部は北海道上陸作戦の準備で極めて忙しい。現在、海上偵察を行い、空軍、砲兵、歩兵及びその輸送手段を準備中である。…ここでの海上作戦は樺太南部の占拠直後の八月二十二日ごろ開始する》
ソ連極東軍参謀長(イワノフ大将)の八月二十七日付命令《諸同盟国との紛争及び誤解を避けるため、総司令部は、北海道へ向けての船舶及び航空機の派遣を絶対に禁止する》》
…次はヤルタ秘密協定とソ連の対日参戦に関する記事です。まあ、ソ連のスターリンは、いつか日露戦争やシベリア出兵の仕返しをしてやると考えていたのでしょうね。
《【検証「戦後日ソ」の原点】(6)ヤルタ密約の周辺
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第二次大戦末期の一九四五年(昭和二十年)二月、ソ連が南樺太、千島列島の領有と引き換えに対日参戦を約束した米英ソ三国によるヤルタ秘密協定。同じころ、対ソ和平工作を企図する日本をしり目に交わされたこの密約が、後の中国残留日本人孤児やシベリア抑留の悲劇につながったことは、歴史の示すところである。
実は、ソ連はヤルタ密約のかなり前から、何度も対日参戦の意思表示を行っていた。
中山隆志・防衛大教授の研究によると、米国務省文書(外交文書第四巻百九十三番)には、太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)から四日後の一九四一年(昭和十六年)十二月十二日、スターリンが将来の対日戦を示唆した記録が残されている。それによると、スターリン首相は対日共同戦線樹立を要請する中国の蒋介石総統に対し、こう語っている。
「ソビエトは日本と戦わねばならない。なぜなら必ずや日本は無条件に中立条約(同年四月に締結)を破るであろうから…」
また、米国の駐ソ軍事使節団長、ディーン中将の回顧録によれば、翌一九四二年八月中旬、スターリンはハリマン駐ソ米国大使に対し、「日本はロシアの歴史的な敵国であり、その究極における撃破がソ連の国益にとって緊要である。…ソ連は今の軍事情勢からは対日参戦できないが、いずれ参戦するであろう」と語っている。
一方、米国のハル国務長官やチャーチル英首相の回顧録などを見ると、米国もソ連に何度も対日参戦を要請している。
太平洋戦争勃発直後の一九四一年十二月八日、ハル国務長官はリトビノフ駐米ソ連大使に対日戦への協力を要請、同大使は「ソビエトはドイツに対して大規模な戦争を行っており、日本から攻撃を受ける危険を冒すことはできない」と、いったん断った。
一九四三年一月の米英首脳によるカサブランカ会談で、ルーズベルト大統領は「もし可能ならば、ロシアからドイツが戦線離脱する時、対日戦に加わるという明確な約束(必要ならば秘密の)を得ることは非常に望ましかろう」とソ連の対日参戦を希望、さらに同年二月、スターリンはモスクワを訪問した米国のハレー特使に対し、「ドイツを撃破したら、ソ連は対日戦に加わって米国を援助するつもり」と発言している。
一九四三年十月、モスクワで開かれた米英ソ三国外相会談の最終日にあたる三十日、スターリンはハル米国務長官に「連合国が首尾よくドイツを打ち負かしたら、ソ連は日本との戦争に参加する」と明言、ハルを喜ばせている。
そして、同年十一月二十八日、テヘランでの米英ソ三国首脳会談で、スターリンは、ドイツ降伏後の対日参戦を公式に表明した。
翌一九四四年十二月十四日、スターリンはハリマン駐ソ米国大使に対日参戦の代償として千島列島、南樺太の領有などを要求、これがヤルタ協定につながる。
その一方で、ソ連は着々と対日戦の準備を整えていた。
防衛庁幹部学校研究員、井上要氏の研究によると、スターリンがワシレフスキー元帥に極東行きを指示したのは一九四四年八月。翌九月、参謀本部で極東への戦力集中についての見積もりが行われ、同年十二月一日、兵器、弾薬、燃料、食糧などの極東への輸送が開始された。
翌一九四五年三月三十一日、メレツコフ元帥を司令官とする沿海軍(後の第一極東方面軍)の司令部要員が極東へ出発。その五日後の四月五日、ソ連は日本に対して日ソ中立条約の不延長通告を行った。(後略)(日ソ問題取材班)》
…今度は、ソ連が着々と対日参戦の準備を進めていたことの目撃談です。その反面、満州の関東軍は戦局が厳しくなっていくにつれ、南方などに移送され、手薄になっていきました。この取材をした当時は、まだ戦中の事情を知る人たちにいろいろな話を聞けましたが、年々それも難しくなっているでしょうね。
《【検証「戦後日ソ」の原点】(7)ソ連軍の東送 欧州戦線から転用
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ソ連軍が対日戦に向けて極東方面への移動を開始した昭和十九年(一九四四年)十二月以降、当時の大本営参謀、瀬島龍三氏(八一)もシベリア鉄道で東送されるソ連軍を目撃している。
瀬島氏は十二月末から翌年二月にかけて、外交伝書使(クリエール)としてモスクワに派遣された。当時、外交伝書使は月一、二回の割合で大本営から派遣されていたが、瀬島氏の場合、佐藤尚武・駐ソ大使に太平洋方面における日米戦の実態を報告するという特別の任務だった。
「何度も軍用輸送列車にすれ違い、戦車や武装兵が東の方へ送られるのを見た。服装などから、対ドイツ戦線で戦った兵隊と思われた。また、モスクワでは、サリュートと呼ばれる戦勝花火が上がっていた」と瀬島氏は回想する。
戦史叢書「関東軍2」(防衛庁戦史室)には、《対日戦のため東ソ軍の増強が具体化したのは二十年二月末ころで、その端緒はモスクワ向けのクリエールの報告から得られた》との記述があるが、このクリエールは瀬島氏を指すとみられる。
ソ連軍がポーランド国境を越え、対独進撃を続けていたころである。
× × ×
当時、駐モスクワ陸軍武官補佐官(中佐)だった浅井勇氏(八五)もシベリア鉄道でソ連軍の東送を目撃している。
浅井氏は東送の規模をこの目で確かめるため、昭和二十年四月十九日、モスクワを出発した。
「ウラル山脈を越えたあたりから、一日平均三列車を見た。東へ向かうに従い、軍用列車の数は増えた。積まれた戦車に占領都市らしい名前やスローガンが書かれ、対ドイツ戦線から転用された部隊であることは、容易に想像がついた」(浅井氏)
戦史叢書「関東軍2」によると、同月二十七日、チタに着いた浅井氏は満州国総領事館から、河辺虎四郎・大本営参謀次長あてに「シベリア鉄道の軍事輸送は一日十二-十五列車に及び開戦前夜を思わしめるものがありソ連の対日参戦は今や不可避と判断される」と打電。さらに、三十日、満州里発の列車内で関東軍第三方面軍司令官の後宮淳大将と会い、浅井氏がソ連の対日参戦の見通しなどを話したところ、後宮大将は「関東軍の戦力では阻止できない。速やかに外交的措置によってソ連の参戦を防止するよう大本営に話してほしい」と語ったという。(後略) (日ソ問題取材班)》
…久間氏も指摘していますが、日本は、日本を虎視眈々と狙っていたソ連に対し、対米和平の仲介を頼むという無意味な行為を続けていました。日本側も、無理を承知でやるだけやってみようという心境だったのでしょうか。
《【検証「戦後日ソ」の原点】(9)対ソ和平工作(下)ソ連、仲介意思なし
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終戦前の対ソ和平工作はまず、広田弘毅元首相とマリク駐日ソ連大使の交渉(広田・マリク会談)という形で進められた。
昭和二十年六月、東郷茂徳外相の依頼を受けた広田元首相は箱根の強羅ホテルに疎開中のマリク大使を四度にわたって(三、四、二十四、二十九日)訪ねた。
筑波大の波多野澄雄助教授の研究によると「広田元首相は、この年四月にソ連から不延長通告をされた日ソ中立条約に代わる新たな安全保障条約を企図していた。ロシア通だけに慎重で、和平仲介の具体的な話は最後まで持ち出さなかった」という。
外務省の外交資料「日『ソ』外交交渉記録ノ部」によると、広田元首相は二十九日の最終会談では、日ソ両国間に不可侵関係設定の協定を結ぶため、(1)満州国の中立化(大東亜戦争終結後の日本軍の撤兵など)(2)石油の供給を引き換えとする漁業権の放棄(3)その他、ソ連側の希望する諸条件について討議する用意がある-などを提案している。
しかし、ソ連の態度は冷たかった。マリク大使は会談内容を本国へ伝えると約束したが、二十九日以降、病気を理由に広田元首相とは会わなかった。
ソ連側が着々と対日参戦の準備を進める中、日本の対ソ和平工作はなおも続けられた。東郷外相の回顧録「時代の一面」(中公文庫)にはこうある。
《…この会談(広田・マリク会談)は到底進展の見込みなしと認めた。それで七月に入った後は、急速に「モスコー」に対し、戦争終末に関する措置を採るため特使を送ることを考究して、総理(鈴木貫太郎首相)との間に協議を進めた》
同年七月八日、東郷外相は軽井沢で近衛文麿公と面会、モスクワ行きを促した。十日、近衛元首相の特使派遣が最高戦争指導会議の構成員会議で決定。十二日、昭和天皇から近衛元首相に「ロシアに行ってもらうことになるかも知れない」とお言葉があった。
近衛元首相は側近の酒井鎬次中将に対ソ交渉案の作成を依頼、議論を重ねて「和平交渉に関する要綱」をまとめた。《ソ連の仲介による交渉成立に努力するも万一失敗に帰したるときは直ちに英米との直接交渉を開始す》と二段構えの内容になっていた。
佐藤尚武・駐ソ大使は十三日、近衛特使派遣と昭和天皇の思し召しに関する訓電を受け取り、モロトフ外相に会見を申し入れた。五日後の十八日、ロゾフスキー代理は「特使の使命が具体的に不明瞭」として回答を拒否したが、ソ連側には特使受け入れの意思などなかった。
ロシア科学アカデミーのアメリカ・カナダ研究所、コンスタンチン・プレシャコフ氏はスターリンが日本の提案を受け入れなかった理由をこう推測する。
「一つは、スターリンが戦後の西側との協力を真に望んでいたことがある。もう一つは、調停者の役割を演じても、日露戦争とシベリア出兵の復讐にはならないからだ」
近衛元首相の秘書官だった細川護貞氏(細川護煕首相の父)は「細川日記」の中で《今朝(二十二日)、荻窪の(近衛)公に電話。ソ聯より断り来れることを知る。…我国内体制が、未だ陸軍の勢力下にあつて、敵側が我方の屈服を信じない為か、それとも三国間に緊密な連絡があつて、我が無条件降伏以外は受け附けないのか》と書いている。
当時、駐ソ日本大使館三等書記官だった法眼晋作氏(八三)は「大使館には、近衛さんが来たってどうしようもないのでは、という雰囲気もあった」と証言する。
佐藤大使もそのような趣旨の電文を東郷外相あてに打っている。
終戦前の対ソ和平工作をめぐって、モスクワ大使館と日本の外務省の間で微妙に認識が違っていた。では、果たして米英との直接和平交渉は可能だったのか。
当時、外相秘書官を務め、北米課長と英帝国課長も兼任していた加瀬俊一氏(八九)はこの問題について木戸幸一内大臣と何度も議論したが、木戸内大臣は加瀬氏にこう言った。
「その議論はもっともだ。しかしね、軍はクーデターを起こすよ」
対ソ和平工作は、軍を抑えながら終戦を軟着陸させるための国内対策でもあった。(日ソ問題取材班)》
…さて、ようやく本題に関する記事です。原爆投下はソ連の対日参戦にどういう影響があったのか。久間氏とは逆に、対日参戦を早めたという見方もありますね。また、原爆よりもヤルタ協定の約束が理由だという見解もありました。
《【検証「戦後日ソ」の原点】(10)宣戦布告繰り上げ
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一九四五年(昭和二十年)八月八日、モスクワ時間の午後五時(日本時間午後十一時)、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武・駐ソ日本大使に対し、いきなり対日宣戦布告文を読み上げた。
当時、駐モスクワ日本大使館の三等書記官だった法眼晋作氏(八三)=後の外務事務次官、国際協力事業団総裁=が佐藤大使から聞いた話によると、宣戦布告文の中に「早く戦争をやめて平和な世界にしたい」という趣旨の文言があった。佐藤大使が「それなのに、日本と戦争をするとは、どういう意味か」と聞くと、モロトフ外相は「文面全体からわれわれの意をくみとってほしい」と答えたという。
佐藤大使らはすぐ、この宣戦布告文を東京に打電したが、なぜか届かなかった。日本政府に公式に伝えられたのは二日後の十日、東郷茂徳外相とマリク駐日ソ連大使の会談の席であった。
《連合国ハ戦争終結ノ時間ヲ短縮シ、犠牲ノ数ヲ減縮シ且ツ全世界ニオケル速カナル平和ノ確立ニ貢献スルタメソ連政府ニ対シ日本侵略者トノ戦争ニ参加スルヤウ申出テタリ…ソ連政府ハ明日即チ八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戦争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス》
一方的に日ソ中立条約を破っての対日宣戦布告。ソ連はなぜ、この日(八月八日)を選んだのか。当時のトルーマン米大統領は回想録にこう書いている。
《モロトフは八月八日ハリマン(駐ソ米国)大使を呼び、ソ連が八月九日、日本と戦争状態にはいると通告した。この動きに私は驚かなかった。米国が日本に原爆を投下したために、ソ連は極東における自己の位置を考え直したのである》
この「原爆がソ連の対日参戦を急がせた」という考え方は今も十分な説得力をもって通用している。
防衛庁幹部学校研究員、井上要氏の研究によると、ソ連は同年六月末、対日戦略基本構想を決定した段階では、対日攻勢開始時期を「八月二十-二十五日」と予定していたが、スターリンはポツダムに到着した七月十六日、チタの極東軍総司令部のワシレフスキー元帥に電話を入れ、「対日攻勢開始時期の十日間繰り上げ」を要求している。この日(七月十六日)は米国のニューメキシコ州での原爆実験が成功した日でもある。
「スターリンはこの時点で米の原爆実験成功の情報を知り、それが対日攻勢時期の繰り上げにつながった」と井上氏は見る。
そして、八月六日、広島に原爆が投下され、翌七日、ソ連軍最高総司令部は対日参戦日を「八月九日」と決定している。
しかし、坂本夏男・前皇学館大教授は「原爆よりも、ヤルタ協定が深くかかわっている」と“原爆説”に異論を唱える。
同年二月、クリミア半島のヤルタ近郊で米英ソ三国首脳はソ連の対日参戦時期について「独ソ戦終結後、二-三カ月以内」という密約を交わし、その独ソ戦は同年五月八日に終結している。
一方、終戦時、駐モスクワ日本大使館の二等書記官だった油橋重遠(ゆはし・しげとう)氏の回想録「戦時日ソ交渉小史」(霞ケ関出版)には、次の記述がある。
《モロトフは、八日午後八時(日本時間で八月九日午前二時)に会見する旨回答してきたが、暫くして先方の都合で会見時間を午後五時(日本時間で八月八日午後十一時)に改めたい旨を電話してきた。日本側としては一刻でも早いに越したことはないので、それに同意した》
坂本氏は「八月八日(日本時間)は独ソ戦終結から数えて三カ月以内の期限ぎりぎりの日にあたる。ソ連はそのヤルタ協定のデッドラインを忠実に守り、領土(南樺太、千島列島)獲得を確かなものにしようとしたのではないか」と見る。
この“ヤルタ説”を補強する資料はまだある。
五月二十八日、スターリンとの第三回会見を終えたホプキンズ米国特使の電報《八月八日までには、ソヴェト陸軍は満州の各戦略地点において適切に展開されるでありましょう》
八月十六日、チャーチル英首相の下院での演説《私の見解ではロシアの対日参戦が原爆の使用によって早まったという説は誤りである。私はスターリン元帥との会談(ヤルタ会談)で、かなり前から、ロシアがドイツ降伏から三カ月以内に日本に宣戦布告するだろうと判断していた》
スターリンの真意を知るためには、新たなソ連側記録の発掘が待たれる。 (日ソ問題取材班)》
これらの記事が出た時点からずいぶん経っているので、その後の研究や新事実発見で、記事が微妙にずれたものになっている可能性もありますが、いずれにしろ、久間氏はこうした歴史問題を語ろうとするには言葉足らずであり、軽率だったと思います。きょうのエントリを全文読んでいただくのはしんどいでしょうが、まあ参考程度に斜め読みしてもらえれば幸いです。


by iza-denbo
河村名古屋市長の南京発言と教…