連休を利用して福島県いわき市の親族を訪ねました。昨年のゴールデンウィークと10月に来た際には、家の真ん前の車道も以下のように地震で崩れた平城の石垣がそのまま放置され、道をふさいだままでしたが、


少しずつ町並みや施設が復旧したところで、戻らぬ人は戻らないし、時計の針を巻き戻すことはできませんが、いわき市では今、周辺市町村からの避難者や、原発関連作業員らが外部から入ってきたことで、飲食店などはミニバブル状態にあるとも聞きました。
人も世もうつろい変化しながら、しかしその営みを寸時も止めることなく続け、今に至るのだという当たり前のことを改めて思いました。で、昨夜、親族の一人は行政に不信感を込めこう語りました。
「低放射線量は本当のところ人体にどういう影響があるのか、本当に悪いのかそうでないのかは分からない。ただ、行政は出せる情報のすべてを出そうとしないのは確かだ。いずれにしろ、我々は実験台にされているのだと思う」
これが的を射た言葉であるかどうかの当否はともかく、ここに暮らす人たちの中に、そういう思いがあるのは事実だということですね。自身も「情報」を扱う身として、いろいろ考えさせられます。不確かな話、怪しげなネタ元、政治的・思想的に意図を感じる情報……などを、そのまま流していいのか。
急を要する極限状況に限らず、平時ですら「裏をとる」という作業はそんなに簡単なものではありません。当事者も目撃者も嘘をつくことも勘違いしていることもよくあります。あるいは、自分に都合のいい部分だけを正確に話すということも。
それを、複数の話を付き合わせながら、「確からしさ」を慮って取捨選択する我々の側も、また、間違うことも早とちりすることも残念ながら珍しくありません。「正しい情報」というものは、実は口で言うほど生やさしく手にできるものでも、伝えられるものでもないと実感しています。
結局、読者の側に、われわれが発信する情報を含めて複数の情報、視点、見方を総合して判断するメディア・リテラシーを期待するしかない部分もあるのですが、それは無責任だと指摘されるかもしれません。ただ、個人は当然として組織としても、いつも瞬時に正解にたどり着くことなど、どんな報道機関だろうとできることではありません。
それでも、そのときどきに現時点では「これが事実関係に最も近いはずだ」と判断したものを、とりあえず提供し、後にもっと事実に近いことが分かればそう修正して伝え続けるしかありません。以前も書きましたが、事実とは、いわば複雑な形をした多面体であり、報道が伝えられることは、暗闇の中で事実のある断面にスポットライトを当てる程度のことでしかありません。
……短信のはずが、少し長くなってしまいました。おまけに、常磐高速道の守谷パーキングのレストランにある私のお気に入りの定食「ミックスグリル」(1200円、ライスおかわり無料)を紹介します。

牛、豚、鶏のステーキというシンプルな取り合わせですが、以外とこの一番嬉しい、多幸感の味わえる組み合わせがよそでは見当たりません。なので、このパーキングで降りてこの定食を食べるのが最近の楽しみです。本当に肉は、いいなあ。


by iza-denbo
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